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ジョン・Mを探して アボリジナルアートから始まる旅

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ジョン・Mを探して アボリジナルアートから始まる旅
ブログ紹介
 中村和恵(明治大学教授・比較文学比較文化および英語圏文学文化専攻)の現代アボリジナル・アートおよびその背景文化の探求記です。

 卒業旅行でのんきに出かけたはずの旅が、アボリジナル・キュレーターを追う「追跡(トラッキング)」になった。
 先住民族って誰ですか? アートって何ですか? 日本人って先住民じゃないの? 
 以来二〇年、考えつづけてきたファンダメンタルな問いに、死なないうちに決着をつけようとアーネムランドへ、砂漠へ……そこで問いは、解決されるのではなく、見事に解消した。

 研究者の探求であり、日本で生まれ育ち日本語で考えてきたもの書き(字を書く以外に能のない人間という意味で)の、トラッキング記録です。カンガルーのように前にばっかり跳んできた結果、貯金はない。文部科学省の科学研究費・基盤研究(C)2010年度−2012年度「先住民族とは誰か――グローバル化世界における先住民族と日本人の位置の比較文学的再考」として、この探求を再開することができました。この探求を意義あるものと認めてくださり応援してくださった方々に感謝します。
 研究記録であると同時に、単純にして根本的な問いかけの記録として、日本語でものを考えつづける方々どなたにでも読んでいただければと願っています。
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ジャッキー・ケイ『トランペット』のこと

2015/07/17 10:59
アボリジナル・アートのことは毎日かならず一回は考える。
のですが、このブログは更新が止まって久しい。まことに申し訳ない。
インタヴューに応じてくださった方々、遠隔地で車に乗せてくださった方々、
缶詰や水や草や虫をくれた方々、ドロドロになって一緒に走った方々のためにも、
また始めます。かならず。いつか。近いうちにね。

今回はちょっと関係ない話を書きます。いまやっている仕事の話です。翻訳です。ジャッキー・ケイです。小説です。
タイトルは『トランペット』。

非常勤講師というお仕事

不思議なご縁で立教大学の英米文学科の学生たちと文学作品を読む授業を、長年つづけてきた。とてもありがたいことだとおもっている。

TVやマンガをみると、どうも大学の先生の仕事というものにいろいろな誤解があるようなのだけれど……
(教授は准教授や助教よりえらい、教授になり上がるのは大変でみんな上がりたいとおもって争っている、お金をたくさんもらえる、悠然としていてあまり忙しくない、眼鏡をかけたおじいさんが趣味でやっている、天才である、ヤナギサワである、等)← ( )内はすべて妄想と誤解です。

だいたい文学部の先生と医学部の教授を混同してはいけませんよ。周囲で動いているお金の単位が全然、ちがいますからね。ハツカネズミもマッコウクジラも哺乳類だっていわれても、ってほどですからね。

そして非常勤の先生と常勤の先生も混同されがちです。でも両者の雇用形態はまるで違います。
かたや時間給・一年契約のパートタイム、他方は月給に多くの場合研究費支給もついたフルタイム雇用。
その分、フルタイムは労働時間が長く責任が重いです(ひとにもよるのですが)。授業なんて仕事のごく一部にすぎません。研究だってごく一部になってしまいかねません。会議、入試、予算編成、組織改革といった大学の運営に関わる、国外であれば事務スタッフの本領である仕事が、研究者として雇われたはずの先生方にたくさん負わされているのが、日本の現状です。

雇い止めのリスクがあり、時間給が安い、でも自分の責任は担当授業に限られる、かなり自由な非常勤。授業が終わったら帰っていい!
雇用は保証されていて、時間給にすれば絶対有利、でも責任範囲が無制限に拡大しかねず、気がついたら研究者というよりはショムニ課長補佐みたいになっていることもある(いまのわたしはそれに近い…)、ひとによっては過労死もする(嘘じゃないよ)常勤。

どっちが好きといわれたら、そりゃ前者。でも家のローンがあるし(靴箱みたいななんちゃってハウス、オーストラリア人に見せたらこんなちいさい家生まれて初めて見たって驚いてたわ)、しょっちゅう病気するし(来年あたりまたハラ切らなあかんかも)、親は純ブンガクだし(=金なし欲なし世知なし)、連れは宇宙人だし(もう帰る星はないんだって)、貯金も株式も遺産くれる親戚も商才も馬券さえもないわたしは、働いて月給を得る以外ないのだ。くそう。がんばるわ。

Trumpet の授業

というわけで、非常勤の話ですが。
上記は働く側の話であって、学生には関係ない。
授業を受ける側からすれば、授業の内容だけが大事。
なのでいつもは別の学校で教えているわたしだが、立教で授業に出てくれている学生たちも、大切なわたしの授業生。できるだけ楽しんで理解して発見して、きてよかったとおもってくれる授業になるように、こころがけている。毎回うまくいくかというと、なかなかむずかしいのだけれど。

今年の春学期はジャッキー・ケイの『トランペット』という、ピカドール版で278頁のペイパーバックを読むことにした。
24人の少人数クラスで、円形に置かれた長机を囲んで、お互いの顔をみながら行う演習授業。
頁数を人数で割って、人数を授業回数で割って、一回だいたい二、三人がそれぞれに担当箇所をよく調べ、背景や固有名詞の解説、原文で大切なところを抜書きして解釈、これらをまとめた概説要約ハンドアウトをつくって配り、発表するという形式で進めた。
担当者以外の学生がどれだけ本を読んでくるか、授業に積極的に参加するか(コメントや質問)によって、授業の活気がまるで違ってくる形式だ。

最初はどうかなあとおもいながらやっていたのだけれど、途中からはっきりと学生たちがこの物語に興味をもち出したことがわかった。

つぎはどうなるの?
なぜこんなことを?
ほんとうはどうだったんだろう?
自分だったらどうだろうか。

物語って偉大だ。
ジャズについて(ジャズ・トランぺッターの家族の話なのだ)、文学史について(ところどころに文学作品への言及や引用がある)、セクシュアリティについて(これがじつは大きな物語の動力になっている)、心理学や黒人差別について、死について……主題だけをとり出したらなんだか重かったり面倒な気がするかもしれない事柄も、物語を深く知りたいとおもうと、いろいろに考え、耳を傾け、調べてしまうのだ。
なによりもまず、おもしろいから。

とくにトランぺッターの息子、最初は子どもっぽくてなんだかダメダメにおもえた彼が、どう変化していくかにかれらは注目し出した。これはじつは彼の成長の物語なんですね、とひとりの学生がいい、みんなが、おお、そうかと表情を変えた。毎回口頭やコメントペイパーで出される感想や質問が、それぞれみんな違った、優等生的でないものになっていった。授業生のみなさん、ありがとう。とても楽しい授業でした。

人文系学問は私立大学だけで充分だ、と文科省の一部の方々がおっしゃっているという。とんでもない話だ、とおもう一方、私立大学で仕事をしているものとしては、ならばますます、やらねばとおもう。
私大文学系・文化論系なんて、まるで役立たずのようにおっしゃるおじいさん(この語は年齢でも性別でも親族関係でもなく、保守反動的なおつむりの状態を指して用いています。おじいさんでないおじいさんはご寛容にご理解ください)がおられる。

きわめて遺憾であります。
まるでおわかりでない。
おくにを滅ぼすお考えです。
国破れて山河さえなくても、詩歌を、物語を伝えつづけることが、ひとつの民族の存在を保つのだ。ガス室を前にした詩人が、壁に書く文字で正気は保たれるのだ。文学は人間の根幹だ。

日本なんてなくてもよい、解散しようとお考えの方だけが、日本語で世界を解釈しつづける試みを(その大事な、大きな部分が、外国文学の日本における研究です)、すなわち文学研究の存続を、否定なさることができる。文学は実学である。存在の根幹にかかわる必須科目である。文学部万歳。

つづきはまたここで
で、トランぺッターの家族は彼の死後、明かされた事実に揺れながら……いま200頁ぐらいまで読んだよね、みなさん。今週が最終回なんだけれど、最後まで間に合うかどうか、微妙になってきた。終わらなかった部分の要約は、このブログに掲載するので読んでください。一部翻訳や、わたしの解説も載せます。

この本、来年翻訳を完成させて出版する予定になっています。
なので結末部分の要約はまさにネタバレ的な部分もありますので、まとまってから読みたい! という人は読まない方がいいですよ。
でもね、学生もいっていたけれど、ネタバレとかあんまり関係ない話だよね。

ストーリーはわかっている。だって最初のほうに衝撃の事実は明かされちゃうんだもの。だけど、問題はそれから、なんだよね。どうやって青年はむずかしい事実と、そして結局は自分自身と、向き合っていくのか。死は生きている人の側を照らすのですね。生きている自分を見つめなおす機会なのですね。

というわけで、先生のレジュメは次回ここにアップしますので、授業生もそうでない方も、楽しんでくださるとうれしいです。
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一回性の連続――無文字社会の記憶をつなぐ「パフォーマンス」

2012/11/08 07:17
一回性の連続

 日経新聞に六月頃から毎週月曜日(祝日を除く)コラムを書いている。一三〇〇字程度だからちょっとした小話を書くと字数は尽きてしまう。いつも倍ぐらいの字数から削っていくのだが、削る気になればいくらでも削れるもので、しかし削っていくうちにいいたいことに至る前の前座みたいな話だけになってしまうことが多い。ある程度の字数がないと説明しきれない話は、誤解されたくないからそっくり引き出しに戻してしまうのだ。でも増やすよりは削るほうが好きなので、それが嫌だというわけではない。ざくざく、ちまちま、削っていく。
 しかしときどき、ちょっと、ん、と立ち止まることがある。ここから先は、もうすこし言葉がいる。これはやはりどこかで、書かなくてはならないことだ、と思う。今回もそうだった。先住民族についてわたしが考えていることは漠然としたひろがりをもってさまざまなことにつながっている。この話はその触手のひとつと確実につながっている気がする。そう思った。なので日経に書いたことの先を書いて、ここにあげてみようと思った。最初のほうはだから、記事(「プロムナード」『日経新聞』二〇一二年一一月五日夕刊)と重複するものになっているのをお許し願いたい。


 物忘れをしないためには脳で覚えないことだ。文字という記録法を発明した人間は「いくらでも拡大しうる知識」を手にいれた。忘れたくないことは、書き残せばいい。最近は紙というモノさえいらない記録媒体が増えている。しかしどんどん新しくなっていく電子媒体は、どれだけの間、維持されうるのだろう? 和紙に墨で書いたものは千年以上保たれていることもある。電子カルテがそんなにもつとは、どうも信じられない――近藤孝さんというお医者さまがこんなことを書いていらっしゃるのを拝読した。(『南労会ニュース』2011年1月31日号より要約)。

 電子記憶媒体は紙媒体にとってかわるのか。これについてはまだよくわからない。わたしは紙が好きですが、これが感傷的なのか実際的なのかは、もうすこし経てばはっきりしてくるだろう。ただ文字記録の脳記憶に対する優位については、多くの人が当然と考えているのではないか。

 世界のいくつかの土地で地元民の方々と知り合いになって、これまで漠然と信じてきたことに勘違いの思いこみが入りこんでいるのでは、とはっとしたことが何度かあった。文字に関することも、そのひとつだ。
 文字のない文化は稚拙で劣っていると信じている人は多い。サモアもトンガもフィジーもタヒチもアオテアロア(ニュージーランドと名づけられた島をマオリはこう呼ぶ)もラパヌイ(こちらはイースター島)も、文字はありませんでした、というと、じゃあ白人との接触以前のポリネシアの歴史文化はまるで記録されなかったのですね、と残念そうな顔をされる人がいる。それは違う、と思う。

 人類史上最古にして最新、考えかたによっては最強の記録媒体、それは脳だろう。文字はたしかに一個人の寿命を越えて言葉を伝える優れた道具だが、これがないと歴史も記録もないと考えるのは間違いだ。パソコンや本や木簡がなくても、人は覚えて伝えることができる。

 文字を発明しなかった文化のほうが世界には多い。日本はたまたま漢字文化圏に近かったので隣国から文字を輸入したが、それまではなかった。文字の発明自体だいたい数千年前と、人類史上比較的新しいものだ。

 すくなくとも4万年以上現在オーストラリアと呼ばれる大陸で暮らしてきた先住民(アボリジニ)と総称される人々は、世界をつくった祖先の旅物語を歌で暗記し、代々伝えてきた。かれらに限らず世界各地でこの世の創生や神々の逸話を口承で伝えてきた人々の間に、驚くべき記憶力を示す語り部が存在してきたことを、多くの研究者が指摘している。文字がない文化では脳記憶がフル活用される。録音再生も巻き戻しもない、一回だけだから聞く方も真剣である。あとでノートを見れば、というわけにはいかない。

 ソング・サイクルと白人研究者や旅行記作家たちが呼んだものについては、深い哲学的なレベルから表面的な観察まで、さまざまな説明がなされている。わたしがいくつかの本から理解した、具体的な儀礼のやりかたとしてのそのありようを、極力単純にいえばこうなる。定まった時期に定まった歌を、その歌に歌われた場所に集まって、踊りや身体装飾などを伴う総合儀礼として上演する。一連の歌物語の一部をやるときもあれば、全部というときもある。

 こうした行いは土地の「維持管理」のために欠かせないことで、やらないと問題が起きると考えられてきた。昔の白人入植者たちはかれらがよく「ウォークアバウト」つまりぶらぶら叢林の中に消えていってしまう、気ままで勝手な人たちで頼りにならない、といったものだが、じつは長老たちを中心にみなさんやるべき仕事がたくさんあって、忙しく動きまわっておられたのである。

 特定の土地とその場の自然に関わる人間は、表面に現れていないものも含めその土地の性質をさぐり、たどり、理解して、繰り返しかれらが咀嚼し納得できる物語として保存してきたその起源を再現し、後世に伝える義務がある――
 こういう考え方は、土地とはもっぱら人間の物質的生活を豊かにするために最大限利用するべきものと考える人たちには、面倒くさくて迷信的にしか響かない。しかし、土地と人間の関わり方は根本から考え直される必要があるんじゃないか、という疑問が、これまでにないほど多くの人々の間でじわじわ支持されつつある現在、こうした考え方をむしろ新しい、とみる人もいるだろう。モノとココロを分断する西洋近代的な説明法でいえば、この考えはすくなくとも二重の意味で効果的だ――土地に関する地質学的・気象学的・鉱物学的その他人間に役立つ具体的な知識の長期にわたる保持のために、そして特定の土地の特定の人間にとっての精神的な意味づけを保証し世界を安定した意味のある場所にするための心理装置として。

 ただし、かれらはこんな説明のしかたをしない。ある場所にたとえばウラン鉱脈があることと、その場所が宗教的に重要な土地であることは、切り離しうることではなく、ひとつのこととして認識される。その場所を説明するための歌、物語、物語に現れる祖霊および祖霊と結び付けて考えられる動物、禁忌すなわち法、図像、ダンス、ボディペインティングは、同じひとつのことを指示している。そこはたとえば蜜蟻の聖地だ、岩山は崩してはならない、そこでこの歌をかならず歌わなくては世界が終わる、とかれらがいうのは、まさにかれらの知の言説において、それがもっとも正しい説明であるからだ。土地は、読み上げられ、歌われ、維持されなくてはならない。

 わたしはこういう土地のメンテナンス法は、文字に残さない脳記憶の文化と密接に関連しているのではないか、と思うのだ。

 一固体としての生命が終わるときに脳の機能も終わる。記憶は生物としての個人の寿命の長さしか保持されない。だからこそこれを伝えていくためには生きている時間の中で繰り返し歌を歌い、祈りを唱え、所作を行い、踊りを踊って確認をつづける。一回性の記憶が次の一回性の記憶に環をつなぎ長く伸びていくために、パフォーマンスが必要なのだ。

 演じることは再現すること、現在に過去を顕現させることで、それは文字通り未来に過去をつないでいくために必要な作業である。歌われない土地は荒れてしまう、儀礼をしなくては土地がだめになるというのはそういうことだ。その土地にまつわる物語に織り込まれた過去の記憶、人と土地の関係が、繰り返されるパフォーマンスにより維持されていく。土地の起源を、神話の歌を、忘れてしまうということは、その土地との精神的つながりを失ってしまうということだ。

 そんなことどうでもいいでしょう、と一笑に付すことができる人は、ある意味では幸せな人なのかもしれない。土地と自分の深い結びつきを疑ったことがないということなのだろうから。ひょっとするとそういうひとこそ「原住民=original tribe」と呼ばれるべきなのかもしれない――史実や人類学的検証によって与えられる名称ではなくて、文化論的に獲得される称号、確信によって保障される権利として。ただしかれらが信じている土地とのつながりを、土地のほうも受け入れているかどうかは、別の問題だ。自然は人間とは、実際の話、関係がなく動いていく。人間が関係づけるために、自然に働きかける、そのやりかたのひとつが、土地とのつながりを説明する物語をつくること、自分の精神をそこに落ち着かせることである。それを先住民は、土地の維持管理、と説明する。

 他方、土地とのつながりを納得させてくれる物語を切実に求めている、という人もいる。この土地は自分にとって一番懐かしいのに、じつは自分はよそ者、それも土地に根差した人々の暮らしを切り裂いた侵略者の子孫である、という自覚をもつ人々がそうだ。植民地入植者の子孫の心に、かれらの文学を通して接してみて、繰り返し思い知らされるのがこの土地に受け入れられてあるという確信を求める心理なのだ。

 もちろんそれは入植者の子孫であればだれでも抱えている心理というわけではない。また、この心理はじつは歴史上のある時期に植民地支配者の子孫たちにつよく自覚されたものなのではないかとわたしは考えている。存在についての問い、自己の位置への内省がつよく意識された二〇世紀の作家たちの心理なのではないかと。かれらの多くが先住民に「再会」することを望み、かれらの物語に深い関心を抱き、そして多くの場合、出会えず、出会っても理解しあえたと感じることはできずに、「内奥」の地を思いつづけた。パトリック・ホワイト。ジーン・リース。ローレンス・ヴァン・デル・ポスト。ウィルソン・ハリス。

 おもしろいことに、先住民の側で守ってきた伝統の維持が危機的状況になってきた頃、そしてランド・ライツ・ムーヴメントなど先住民側の主張がそれまでのように無視できない社会的な流れが生じてきた頃、つまり先住民がまったくの「他者」ではすでにありえないということが入植者の子孫側にも先住民側にも確認されだした時点で、こうした「内奥」への憧憬は崩れ出し、より現実的で日常的な「かれら」の物語が両サイドから出てきた。(そしておそらくまたしてもジーン・リースは、その分岐点に立って両側を見ている――他の作家たちに比べれば言葉少なく、社会学的分析よりは精神医学の分野に任せたほうがよさそうな人物をつねに描いてきたこの作家が、徹底して自分の内の真実だけを描こうとしたことから身を置くことになった特異な観測地点には、ほんとうにどこから書いたらいいのかわからなくなるほどいうべきことがある。)どちらの描写にも、わたしはとても興味をひかれる。だがこのことは、ここで主に語ろうと考えていることではない。

 先住民側の視点に戻れば、精神的とわたしたちが呼ぶ土地とのつながりの保持が同時に、土地との物質的つながりであることを強調しておかなくてはならない。儀礼がすたれ、歌が歌われなくなり、物語を失い、土地の名を忘れることは、具体的な損失であり、ときには壊滅的な破壊を意味する。水の行方、風の暴力、地熱のリズム、魚の遡上時期、動物の繁殖期、奇妙な石の忌避、地中の富の存在。こうしたことを忘れる、ということがどれほど恐ろしいことか、台風エリアにあり地震国である日本に暮しているものは、身にしみて感じていなくてはならないはずだ。だがわたしたちは事実、かなり多くを忘れている。文字に頼り過ぎたから、と言い切っていいとまでは、文字に多くを頼って考えてきたわたしは言いたくない。だが、そういう側面も、あったのではないか。すくなくとも文字に書かれたものだって、「演じられる」必要、つまり読まれ、繰り返し言及され、検討される必要がある。それを怠り大切な物語が忘れられていけば、災厄は免れない。そういうものではないか。

別の言い方もできる。

 中川裕氏の『語り合うことばの力――カムイたちと生きる世界』(岩波書店 2010)のなかに、書かれた契約がないとき「口約束」はなによりも重い契約であった、と書かれてあった。口に出していったことばの掟、契約が、文字の前に容易く負けていったときがあった。国家と文字の結びつきを説明した書は多いが、文字を持たない側のことばのつよさ・よわさについて考えることはなかった、と思った。聖書には文字文化と無文字文化の混交、せめぎあいが見られるような気がする。キリストはすくなくとも書かなかった。語っただけだ。書いたのは弟子だった。キリストはDNA上は意見が分かれるだろうけれど、すくなくとも家庭環境的には大工の息子であったことは書いた者たちが認めている。彼は字がすらすらと書けたのだろうか? 

 無文字文化において神との契約は口頭で更新されなくてはならない、儀礼でうたわれ演じられることで継続されなくてはならなった。わたしたちの記憶に、この呪術的な言語の意識はまだ、すっかり消えていないのではないか。耳で聴く言語に、いまもわたしたちは惹かれる。

 朗読は文字で戦ってきた、黙読のために書いてきた詩人たちのことばを緩めてしまう、という荒川洋治氏の長年の意見に、わたしは一面では共感し納得しながら、別の面ではなにか違う種類の言語というもの、近代文学が洗練し彫琢し問いかけてきたのとは別種のきびしさを持つ言語のことも考えていた。そうした言語に、現在のわたしたちが詩を朗読することで近づいたような気になるのは、安易すぎる。だが朗読がしたい、聴きたいと思う人のこころに、古い古い耳で聴く詩に惹かれる気持ちが消え残っていると考えることはできるのではないか。

 大切な歌を繰り返し演じること。文字文化であれ無文字文化であれ、それは死すべき存在であるわたしたち人間が生をつなぐために採用してきた、知の継続のもっとも基礎的な方法なのではないだろうか。

 この根本的な場所から、学術という世界のありようもまた、再度問われなくてはならないのではないか。大切な歌とはなにか。その主要な欠くべからざる中心が主に西ヨーロッパでこの二、三千年ほどの間に生じたものにあるなどとは、もはやわたしは全く信じていないのである。そしていまや当たり前すぎるように響くこのマニフェストは、わたしがその末端にぎりぎり存在を許されている(と信じているのは当人だけなのかもしれないが)学問世界において、実際に引用され扱われているテキストを眺め渡したとき、いまだに圧倒的に少数派のものなのだ。
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地名が魔法である理由――歌/詩で土地を維持管理する

2012/04/29 11:15
 地名というのは魔法よ。<
 これはパトリック・ホワイトの19世紀オーストラリアを舞台にした探検家の物語の中で、中央砂漠を彷徨い戻ることができなくなった探検家の分身というべき女性、ローラがいう言葉だ(Patrick White, Voss, 1957)。
 ほんとうにそうだ、地名というのは魔法だ。
 その理由はオーストラリア先住民の側から考えると、自明といっていいほど簡単にわかる。
 ひとが生きるためには、土地が、歌われなくてはならない。
 オーストラリア先住民族は、そう考えている。

 土地は、読まなくてはわからないものだ。
 土地を読むことができて始めて、そこで生きていくことが可能になる。
 土地を読む解読法を、それぞれの土地の物語を、それらがつながった網の目を、維持していくことが、人間にできる基本的な土地のメインテナンスだ。
 ダムをつくったり堤防を築くことよりも、じつは大事な土地のメインテナンス、それは土地を解読するコードを維持し続けること、つまりその土地がどのような土地か理解しつづけること、そのコードを次世代に渡し続けることである。
 具体的にはそれは、ある大切な土地についての物語を、その記憶/記録を、解読法とともに維持し、確実に渡すことである
 都市化やグローバル化が進んだ地域の古い地名は、その物語がほとんど忘れられ、解読法が失われた現代に残った、土地に関する記憶の遺跡のようなものなのだ。

 ひとは土地の上で生きていく動物なのだけれど、その具体的な意味をわかっているひとは減っている。東京のような都市で、農業や漁業、畜産業など、土地や海と直接かかわって生計を立てているわけではない、流通が整備され働く人がたいへん効率よくそれを利用してものを回していく日本で、土地を読む、という能力はどんどん、低くなっている。その能力がなくても、コンビニエンスストアがすべてを提供してくれる土地なら、生きていけるからだ。
 でも土地を読めないと、死んでしまう土地というのも、まだある。きびしい土地。砂漠や、熱帯湿地のような。
 先にも言及した、中央砂漠・ユエンドゥム(Yuendumu)のおばあさんたちの話は、じつは以前平凡社の『北海道の地名』(日本歴史地名大系1・永井 秀夫 監修 2003年) の月報に書いたのだが、儀礼用の石をとりにいくというおばあさんたちと一緒にミニバンで出かけたとき、まず彼女らの車のナヴィゲーションに、わたしは驚いた。
 赤い砂漠、木も背の低い灌木しか生えていない、日本人の目には不毛の土地だ。そこでおばあさんたちは、右に曲がれ、とか、そこを左に、とか、まるで市街地の路地を走っているように指令を出す。右とか左とかいうのが意味あるように見える土地じゃない。ただ平たいのだ。でもみなさんは、どこをいくべきなのか、正確に知っている。歩いて、覚えているのだ。

 ここだ、ここだ、と着いたところで、そこも「ここ」と明示できるような場所には見えないのだけれど、彼女らは石を掘り出す。丸い,白い石がたくさん、砂をほるとごろごろ出てくる。その石は大トカゲの卵、と呼ばれている。その石の鉱脈がどのぐらい、どっちの方角につづいているか、ベティ・ナカマラさんというおばさん(写真左)が、さりげなく教えてくれた。
 もちろん、わたしのようなぽっと来ただけの人間に,教えないことなら山のようにある。聖地とされる水場や、儀礼が行われる土地で、かれらの大地は埋め尽くされている。ユエンドゥムは白人とのつきあいがアボリジニの他のグループに比べ比較的長いワルピリの人々のコミュニティだ。ぽっと来た人間にどんな話だったらしてやってもいいか、そういうことはよくわかってやっているのだとおもう。だがかれらの多くは、なにも語りたくないというわけではない。自分たちが気の遠くなるほど長い間伝えてきた土地に関する聖なる物語の重要性は、外部の人間にもわかってもらいたい。消えていかないよう、ナイキのスニーカーやスマートフォンのほうが興味ありげな若い世代に、伝える方法を悩んでいる。そういう人は多い。
 かといって、なんでもかんでも情報公開してしまうことには、やはり抵抗があるというひとも多いのが、オーストラリア先住民族であることも、事実である。
 アランダ、アランタ、アレンテなどと呼ばれる中央砂漠のあるグループの言語を調査し彼等の聖なる儀礼の記録をとることに一生を費やした男がいる。TGHストレロー(1908-1978)というその男はアランダの間で育った。父親がハマースバーグというルター派の伝道所の伝道者として、先住民居留地に赴任し、そこで20年以上伝道活動を続けた人だったのだ。アランダ語は彼にとって、子供の頃から聞き覚えた言葉だった。両親はドイツ人なのでドイツ語が第一言語で、英語とアランダ語はおそらく幼少期の彼には同程度の重要性をもった第二言語だった。

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T.G.H.Strehlow (中央) 1935 Strehlow Collection 15572, Strehlow Research Centre, Alice Springs, Australia

 彼の本は大きい意味、また小さい意味での政治的理由から、ほぼすべて絶版になっている。その主著であり、書かれてから出版までにも長い時間がかかった、その意味でもけっして正当に評価されてきたとはいいがたい大部の労作『中央オーストラリアの歌』(Songs of Central Australia, 1971) も、数十万円を出してなんとか購入するか、オーストラリアの図書館の希少本閲覧室で読むしかない。ストレローの本は、秘密に抵触する、という。白人が持っていていいものではない聖物を、彼は集めている。聖なる歌や儀礼を記述し、原語でも表記した彼の本は危険だ……しかしこうした判断を、いったい誰がしたのか。その見定めは、きわめてむずかしい。多くの場合、直接の差し止め要求やメディア論争はない。つまり白人の出版社、白人中心の大学や研究施設の、先住民族の糾弾を恐れての自己規制である。それは白人のものではない、と声高にいう先住民族の血を引く方が、会ってみると東南部の都市出身の、伝統的民族文化とはほぼ縁のない、聖物の意味も正確には把握していない方であったという場合もある。地元のアボリジニの古老には、ストレローの集めた聖物の大多数が収められているストレロー研究所に、どうかそのまま聖なる石や木をそこに収めておいてくれ、土地開発が進んだ現代では昔の洞窟なども管理は危うい、そこにあるほうがいい、しかし公開はしないでくれ、という方々がすくなからずいるそうだ(ストレロー研究所でのインタヴューによる)。
 ストレローをめぐる論争についてはまた別に述べる。とにかく彼のアボリジニの「聖地」「儀礼」「歌」に関する議論は、これまで読んだものの中で最もよくわたしには理解できるものだった。ストレローの著作の細部を論じる前に、彼の著作や論文からわたしが理解したことを要約してみる。

 重要とされる場所には、かならず祖先が足跡を残している。それは多くの場合、地形に現れている。地下の、われわれが資源と呼ぶ鉱物や、水流、特徴的な気象学的現象が現れやすい場所、植生などであることもある。それらの特性が生じた理由が、祖先の物語で説明される。祖先は旅をして、それらの土地を訪れている。祖先がしたこと、出会ったこと、起きた事件などが、それらの地理上の特性を生み出したのだ。
 祖先の旅は長い長い物語だ。ひとつの土地は、その一部にすぎない。土地を歌うとき、多くの場合そこに直接関連した物語の部分が演じられる。歌はダンス、ボディペインティング、楽器演奏、地上絵や樹皮画による物語のトレース・展示といった他の儀礼的行為と不可分であるから、演じるということばがもっとも適切だ。演じるのはしかし、より長い、周辺地域の別の場所の物語を含む場合もある。重要な儀礼では最初から最後まで、その土地に大切な祖先の旅のすべてが歌われることもある。歌は、土地をネットワークしているのだ。その全体を知ることは、総合的な土地の解読法を知ることである。
 それぞれの歌に関わる土地を訪れ、そこで演じられるべき歌を演じること、それがその土地のメインテナンスである。それをしなければ、土地はだめになるのだとかれらはいう。これはわたしの解釈だが、歌が失われるということは、土地に関する知識が失われることであり、結果として、そこから受ける恩恵も、避けるべき自然災害や危険の警告も、すべてわからなくなることである。つまり土地は、ひとにとって理解不能な、恐ろしい、荒れたものになる。土地の管理者として、かれらはそれを避けなくてはならない。耕すこと、加えること、人工物を築くことが管理ではない。そのままにあるものを深く理解しそれに合った行動をとることが、かれらの土地の管理法である。

 詩はなにをするのか、できるのか。そういう問いかけを友人からもらい、それに対する答えとして、ストレローのことをすぐに考えた。わたしは、ストレローの本を読んで詩の社会における意味を確認したようにおもったのだ。それらは伝統的な詩であって、個人が新しい表現を求めてつくる現代詩とは別ではないか、という意見もあるだろうし、それはある部分正しいとわたしはおもう。しかし根底ではその二つは通じている。通じていなければ現代詩には根源的な力が感じられないはずだ。
 詩のすることが、ひとの側から世界に対して行う働きかけのひとつであることはたしかだ。そこにある「世界」、それはひとがつくった社会も含めてなのだが、そういう意味での世界を確認したり、吟味したり、解説したり、批判したりしながら、ひろい意味では、恐ろしくて真っ暗でぐちゃぐちゃの世界に、コスモスの秩序ではないかもしれないけれど、なにか道筋を見出したり、あきらめることを知ったり、うれしがってみたり、退却法を編み出したり、あるいはいやがって暴れてみたりする、そうすることでひとと世界の間の連絡をつける試みをする。それをやめてしまったらひとのたましいは暴れるすべもしらず茫々と荒れすさみ光をうしなっていく。詩/歌は(この二つは文字文化と非文字文化の同じものの呼び名ではないか)そういうものなのではないかと考えるようになった。歌では堤防もつくれないし発電もできない、パンもほとんど買えないし子供も学校に行かせられなかったりするけれど、歌は世界でひとが生きられるようにメインテナンスする、重要な手段なのだ。地名が魔法であるならば、歌は魔法であり、詩は魔法の記録である。
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別の知流 ――アボリジナル・アートを「読む」ということの意味

2011/06/21 00:00
いったいいつアボリジナル・アートの本を書くんですか、と温厚な編集者の方はおっしゃらなかったが、おもっていらしたはずだ。いったいいつ書くんだろうとわたしもときどきあたまを抱えていた。生来なまけものであるというだけでは、説明がつかないことが起こっていた。半分眠ったようなのんきなあたまの隅に、いつも疑問があった。なにかが、わからない。なにかが、納得いかないんだ。
 その疑問が晴れたのは、たぶん、二〇〇三年にオーストラリア北端・アーネムランド北東のアボリジナル・コミュニティ、ラミンギンニンを訪れたときだった。たった数日の滞在で、何年も人類学者が調べるような親族関係だの神話体系だのがわかるわけがない。わたしが知りたかったのは、そうしたヨルングたちの知的・社会的知識に近づく前の、前提だった。わたし自身の、立ち位置だった。
 振り返ってみれば、それは深い思い込み、勘違い、とらわれだった。先住民族と呼ばれる人々がなにか自分とは異なる特別の種類の人間だとどこかでおもってしまっていた愚かさだった。それに気がつくのに、そう、一九八九年からだから、まさに一五年を費やした。そういうことだったのだとおもう。
 自分のあたまをできるだけ自由にしたくて、問いから解放されたくて、わたしはずっと考えつづけてきた。そういうことなのだともおもう。
 北東アーネムランドのアボリジニたちは自分たちをヨルングと呼ぶ、ヨルング、すなわち人間と。

 わたしは蒐集家ではない。本も読んで考えて書き込んで、いってみれば使えればいいとおもっているから初版のハードカバーや署名入り本にはとくに興味をひかれない。考えが前に進んでいけばさえ満足なので、まとめることも構成することも、正直苦手だ。なのに、二〇年という時間の中で知らない間にオーストラリア・アボリジナル美術に関する本、論文コピー、記事、展覧会カタログ、メモ、写真は徐々に増えていき、段ボール箱にいくつもどっさりとたまっている。いったいどこから手をつけていいのかわからなくて、何度も整理しかけてはあきらめた。もうこの本のことはあきらめようとおもったこともある。だが、そのたびにきっかけがあった。手紙が舞い込み、展覧会が催され、人に出会い、小さな記事が載り、本の一節が光ってみえた。
 最初から、現代アボリジナル・アートとの出会いは偶然だった。だから段ボールの上から順番に、気になったひとことを、長い間棚ざらしになっていてやっと読めた本を、埃だらけの資料室でコピーした古い論文を、片端から見ていこうじゃないかとおもう。だいたい二〇年前に読んだ本なんて、初めて読むのも同然の新鮮さだ。
 ブルース・チャトウィンの『ソングラインズ』から、話を始めるつもりでいる。その前に、はっきりさせておきたいことがある。わたしが西洋美術の歴史とオーストラリア先住民美術の歴史の間になにか決定的な違いがあるとはもはや、まったく信じていないことだ。あるときから、おそらくアボリジナル・アートにたいする関心が自分なりに先住民美術とその背景文化に対するある種の理解に至ったと信じられるようになってからだとおもうのだが、まるで喫煙者が急にたばこが吸いたくなくなるように、西洋文化を特別なものとみなす習慣をわたしは失った。気がついたら、そうなっていた。
 そういうと、ショックを受けたような顔をする人がまだたくさんいることは知っている。だが日本人こそが、そういう視点を持つことができる、それはわたしの利点であって、それを利用しない手はないと、いまわたしは考えている。さらにいえば、西洋近代文明がいまほぼ、グローバル化しつつあることを、それが格段に優れた文化であるからだとも、わたしは考えていない。西洋近代文明が地上あまねくゆきわたりつつあるのは、それが速度と武力(暴力といってもいい)と物量において他を圧したからにすぎない。科学ということばはあえて使わない。なにが科学なのかはいま、原子力発電所という科学の粋であったはずのものへの批判力を欠いた信仰がなにをもたらしたのかを徐々に知り愕然としている日本の人間として問わざるをえない、別の大きな課題であるから。かといってアボリジニの文化が西洋近代に対立する「純粋」でまったき善でできたものだというようなファンタジーに浸ることはできない。アボリジニの現代文化についてわたしは考えている。かれらの現代美術について考えている。それは白人との接触後に誕生した視覚的造形物の話である。それは、まさに白人との接触をきっかけとしていまのかたちになった視覚的造形物である。

 『オセアニア美術にみる「知流」を超えるもの』(埼玉県鶴ヶ島市教育委員会編、里文出版、二〇〇五年)は、その題にぎょっとして、買った本だ。
 「一九九五年と九六年にかけて、美術品収集家、故今泉隆平氏から「教育と文化の向上に役立てて欲しい」と一七二五点ものオセアニア地域の民族造形美術品を寄贈いただいた」埼玉県鶴ヶ島市が、パプア・ニューギニア美術を中心とするこのコレクションを市民や市外の人々に役立てたいと考え行ってきた展覧会出展や講演会などの成果のひとつとしてまとめた本であるという。タイトルについては次のようにある。
「本書のタイトルは、このような作品の価値を総評したものとして、山口昌男さんとヨシダ・ヨシエさんの対談(二〇〇二年八月、札幌大学にて収録)中、「西洋中心の知流、知の流れを変え、さらにそれを超えていくものととらえたほうがいい」という山口さんの発言から拝借させていただいた。」(二一八頁) 
これを読んで、ちょっとほっとしたと同時に、だとしたらこの題はやはり問題があるといわざるをえないとも思った。ここで言及されている対談はこの本の最初に収められている。西洋中心の知の流れとは別なものがオセアニア美術を生んだ背景文化にはある、その優れた力がまだまだ認識されていない、されていくように日本の研究者や美術関係者が尽力していかなくてはならない、という対談者お二人の考え方はまったくそのとおりであるとおもうが、だとすればそれは「知流」を超えるものではなく、西洋中心の知の流れに対抗し、しかしそれと混ざり合い、古いものと新しいものをつないで現在も発展しつづけている、いわば「別の知流」に学ぶということである。オセアニアの先住民文化にみられる哲学と世界解釈、山口氏は対談中それを「造形物の背後の世界観」と呼びこれについてはオーストラリアにいい研究があるといっている(二〇頁)。そのとおりだ。そしてハワード・モーフィやジョン・マンダィン、T・G・H・ストレローやR・M・バーントの著作、無数の展覧会カタログやコミュニティの人々の発言を集めた本を見ていけば、ここに「別の知流」があることは疑いようもない。先住民の美術や物語を「知」――それがかぎかっこつきであったとしても――から遠いもののように疑わせる題に、わたしは敏感に反応しないではいられない。

 なんという知だろう、とおもった。なんという知識、知恵だろうと。
 タナミ砂漠でワルピリの女性たちと儀礼用の石を掘りにいったとき、ベシー・ナカマラさんがわたしに、なにげないふうにもらしたことばにわたしは急に目が開くおもいがしたのだった。
 ここはゴアナ(大トカゲ)の卵の物語(ドリーミング)の土地。ここを大トカゲの精霊が通って、あっちへ行った。だからほら、ここにはこういう白い丸い石が埋まっている。この石はあっちの方角へ、ここから二〇〇キロにわたって続いているんだよ。 
目がくらむような気がした。わたしにはなにもない荒野、砂漠の地でしかない場所を、かれらは地下にいたるまで精知し、名付け、読み込んでいたのだーーこの話は別のところで書かなくてはならない、ベシー・ナカマラさんとわたし、砂漠のワルピリおばさんたちとチーズ・サンドウィッチの話として。

 アボリジナル・アートとひとくちにいうが、この広大な大陸に散らばった二〇〇以上の言語をもつ多数のグループはそれぞれ、異なる神話、異なる文化、異なる絵画や彫刻や聖具(sacred objects これをどう訳したらいいか、聖物というより儀礼的役割を考えたら聖具というべきかとおもうのだが)の伝統をもっている。ハワード・モーフィの『アボリジナル・アート』(Howard Morphy, Aboriginal Art. London: Phaidon Press, 1998)は、できるだけわかりやすく、具体的に、網羅的に(モーフィの研究の中心であるアーネムランドのイルカラ(Yirrkala)の記述がやはり多いが)、アボリジナル・アートの全体図を書いた本だ(岩波書店から翻訳が出ているので日本の方も読むことができる、わたしはいま国外で手元にないので以下の引用は中村訳)。入門書として意図されているが、読み応えがある――文章は平坦だが概念はなかなかつかみがたい。これはアボリジニについての本の多くに、共通していることでもある。慣習的になっている西洋的知の流れとは違うものをいいあらわそうとするとき、欧米の知のことばはなめらかさを失い、抽象的になり、同時に感覚的なやりかたで異なるものをつかみとろうと、詩的になり、わかりにくくなる。モーフィをけなしているのではなくて、これは異なる文化の間に立つ解釈者にやむをえず覆い被さってくる重荷だ。
 だがモーフィが自分自身が立ち会って分かったエピソードには、やはり異なった光が差している。アボリジナル・アートの土地との関係を強調するのに、それを実際の地図上の土地と対応させることに熱心になり、航空写真のようなものとして考えてしまうことに警告を発しているモーフィだが、やはり地図的であることは確かなのだ、と自分がイルカラで経験した例について、以下のように書いている。
 
「ヨルングの絵にはもっとずっと地図的なものもある。そのことにわたしが気がついたのはある日、イルカラで、ナリチン・マイムル(Narritjin Maymuru)と話をしていて、彼が行ってきたばかりの自分の氏族(clan)の土地、シールド岬のジャラクピ(Djarrakpi on Cape Shield)で土地を拓いて飛行機の発着場とセツルメント(アボリジニ・コミュニティの村落)を作り始めようとしている話を聞いているときだった。彼の留守中に彼の息子バナパナ(Banapana 一九四四-八六)がわたしのためにたくさんの絵を描いてくれていた。ナリチンは、バナパナが絵に描いた彼のくにの地図(the map of his country)をわたしがもってきたら、どこを旅したのか見せてあげるよといったのだった。ナリチンが所望した絵はグワク(guwak)の旅の絵だった。バナパはもうこの絵をわたしに説明してくれていた。バナパによればそれは、グワクがリタルング(Ritarrngu)の土地の内陸部にあるドニジDonydjiから、海岸のジャラクピ(Djarrakpi)へ至る旅の間に起こった出来事の話だった。
 バナパによれば、絵はグワク、すなわちオニカッコウ(koel cuckoo インド・豪州産の鳥)がオーストラリア・カシューの木(native cashew tree, Semecarpus australiensis)のてっぺんに留まっていた、つらい一日の終わりに。絵の両側に描かれているのはグワクのからだを表している(グワクはときに単数形、別のときには複数形で言及されるのだ)。その頭はカシューの木の実をついばむように横を向いている。グワクの側にはエミュー(emu ダチョウに似たオーストラリアの鳥)とポッサム(possum フクロギツネ brush-tailed possum)がいる。エミューはほかのひとたちに水をもたらす。エミューたちが地面を脚でひっかき水を探すと、ひっかいたところから水が湧くのだ。
 グワクは腹を満たすと友達のポッサムにこう教えた、さあ行って働くんだ、きみの毛を撚ってひもをつくるんだよ。ポッサムは木の幹を上ったり降りたりして忙しく何ヤードも何ヤードものひもを撚り、それをアボリジニの氏族に渡して儀礼に使うように教えたのだ。両側に描かれている図は鳥の体を表していると同時に、木の幹、そしてポッサムの毛のひも、すなわちブルクン(burrkun)も表している。翌日グワクはまた旅を続けた。ポッサムの毛のひもの片方の端を口にくわえて新しい土地へ向かっていった。グワクが飛ぶにつれひもはどんどん重くなり、ついにはもう持ちきれなくなった。そこでグワクはそれを離し、ひもは地に落ちて変容しその土地の景観をかたちづけた。
 
 という絵をわたしがナリチンに渡すと、かれはこれにきわめて異なった解釈をしてみせたのだった。[ハワード・モーフィによる簡略図と写真、土地概略図のみをここに載せ、実際の絵(Banapana Maymuru, Djarrakpi Landscape. 1974)はここでは省略する。研究書と違いだれでも無作為に目にする可能性があるウェブサイトにかれらの絵を載せることは、後に述べるように、西洋的法律におけるコピーライトだけでなく、アボリジニ的法における聖性の問題にも、複雑なかたちで抵触しかねないからだ]彼は絵の右下部分から話を始めた。

 ここがわたしたちのランドローヴァーが着いたところだ(a)。ここからブルクンの外側をのぼっていったんだ、ブルクンは湖の縁の低い小石の堆積だ(b)。それからグワクが休んだカシューの木の横を通ってポッサムが実を食べたワイルド・プラム(Pouteria australis ブラック・アップルともいう)の木が茂っているとこにいった(c)。そこで一日か二日待った。長いことこのくにには来てなかったから、土地の祖霊のために歌ったんだ、ポッサムとグワクとエミューのために、この土地に帰ってきたよとね。それからもう一日待って、キリスト教の宣教師にこれからつくろうとしている集落を祝福してもらったんだ。それから湖のてっぺんまで行って集落をつくる場所を拓いた、砂丘のふもとの、グワクが最後に住み着いたあのカシューの木の下だ(d)。飛行機の発着場を絵の右側につくった(e)。この湖の水はすっぱい(sour)。だからここでは水は飲めない(f)。飲み水は海と湖を分けているもう一方の砂丘の岸でとる(g)。ここがエミューが槍を投げたところだ、それは岸辺の、ちょうど干潮時の汀線の上のところに刺さって、そこから水がぼこぼこ湧いてきたんだ。

 ナリチンの描写はいかに効果的にこの絵が地図としての役目を果たしているかを示しているが、同時にバナパナの自分の絵の説明とも矛盾していない、それどころか、バナパナの説明を補完しているといっていい。絵が地図でありえるのはまさに絵が、神話上の行為が地理的な形成に変容する、そのさまを表現しているからなのだ。」(
一三一頁)

 「『ドリーミング』(この英語がアボリジニの精神世界の重要な概念の翻訳としてすっかり定着し、いま現在アボリジニ自身もこの語を用いるという事実があっても、もとはこれが英語の dreaming とはまるで異なった内容をもつことばであったことは、のちに詳しく述べねばなるまい)はたんなる神話ではなく、現在にも生きており、いまもアボリジニの人々の生活の根源をなしている」といった文章を読んでも、なんのことやら、具体的にはわからない。ハワード・ノーマンの目にし耳にした具体的な一枚の絵と、具体的な旅の説明と、定規と方位計で計られて描かれる地図の重なりから、わかることは大きい。
 アボリジナル・アートを読む、ということは、こういうことなのだ。

*、現地語の名称、地名、人名はなるべくアルファベット表記を併記しておこうとおもう。ランス・ベネット『オーストラリア未開美術』という稀な本が、日本語訳しか出版されないという、これまた稀な運命をたどったことで、これを逆にたどってヨルングのアーティストを特定するという大変な作業にわたしの友人ベリンダ・スコットが従事したという経緯を経緯がある。その困難さは、日本語の音とヨルングを含めアボリジニの言語の音がとても異なっていること、日本語のカタカナ表記では表現に限界があるため翻訳者によって表記がどうしてもばらばらになってしまうこと、さらにいえば英語でもアボリジニ諸言語の音を表現するのはむずかしい(音の種類が異なっている)ため、アルファベット綴りにも、最近でこそ統一の方向にあるとはいえ、まだばらつきがある(古い文献の場合これは大変に面倒なことになる)のだ。いったいこれは同じ人なのか、同じ氏族名なのか、といった疑問をすこしでも少なくするため、できるだけ統一されたかたちのアルファベット表記を併記しようとおもうが、歴史的経緯もあり、いつでもこれができるわけではない。そう、音ひとつとっても、別の言語、別の世界、別の知流なのだ。 
 
 
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ジョン・マンダィンを探して 二〇〇三年、二度目の出発

2011/03/10 13:09
一九八九年に始まり、折りにふれて思い出し考えながらそのままになっていた探求が、二〇〇三年に再び始まった。きっかけは、またしてもジョン・マンダィンだった。この男はわたしがアボリジナル・アートについて考えるとき、運命のように姿を現す。まるでおまえはなにか大切なことを忘れていないか、というように、ほかの調べ物をしていたパソコンの画面に彼の名前が立ち上がったとき、おそらく今度こそは、アーネムランドへ行くことになる、と確信した。人類学者でもないし、言語学者でもない、美術史も美学もわたしの専門ではない。ただ民族と文学と文化の問題を、近代日本という分裂症気味の文化的土壌に育った人間が考えていく際に、ジョン・マンダィンが提唱しつづけてきた現代美術としての、抵抗文化としての、アボリジナル・アートが、なにか根本的な指標になる、あるいは、わたしの内にある誤謬と偏見を照らし出してくれる、そういう確信があった。

 結果はおそるべきものだった。もう二度と、わたしはヨーロッパの美術や音楽を、子供のころ漠然と信じていたように「純粋に」うつくしいものとはおもえなくなった。ルーヴル美術館で、人々がもっとも長く足を止める絵画の前をわたしはわき目もふらずに素通りしていった。対等な価値をもつ別の文化がある。同等に働く別の価値観がある。このことが長い間、強烈に、否定されてきた。いかに非西洋が、西洋社会が胴元の「世界」というゲームの中で必ず負けるトリックをしかけられてきたか、ごく最近までこのいかさまがいかに堂々とまかりとおってきたか、いまさすがに表立っては禁じられているとはいえいまだに胴元が「かれら」であると、どれほど多くの人間が信じ込んでいるか。
 早まってはならない。ここに到るまでに、二〇年をわたしは必要としたのだから。

 一三年の間にオーストラリア先住民のヴィジュアルアートに対する国際的評価はきわめて高くなり、その評価はブーメランのようにUターンしてオーストラリアに返ってきて国内の評価を押し上げた。二〇〇三年、アーネムランドや中央砂漠地域のアボリジナル・コミュニティに設けられたアート・センターから都市に送り出される絵画は、州立美術館のいちばん目につくセクションを堂々と飾り、ギャラリーではおみやげを求める観光客だけでなく投資目的の顧客やディーラーたちにより盛んに売買され、コミュニティや部族の集団的活動として注目されるだけでなく個人の名を冠した画集もつぎつぎと出版されている。研究書、論文の類も質量ともにかつての比ではない。とはいえ、この状況は一九八九年にすでに予期されたものではあった。ジョン・マンダィンはこの新しい運動の先陣を切っていた。一九八九年にわたしが彼を探し出すためオーストラリア大陸を縦断したのも、その確信があったからだ。ジョンの運動、現代アートとしてのアボリジニ美術という運動は、あきらかにより広い賛同を得て広がりつつある。

 だが、いまもまだわからないことがある。いまもまだ、なにかがねじれたままだ。先住民族の芸術と、近現代美術の間に、いったいなんの違いがあるのか、ないのか。聖/秘(英語では Sacred/Secret と書かれることが多い)なる図像や物語や歌――もともとこれらはすべて一体となってひとつの儀礼を形作るのだが――を、異なる文化的文脈において公開することにつきまとうためらいや反省に、いったいだれがどのような権利のもとに決着をつけられるのか。アボリジニの絵画が精神世界の継承になにより重点を置くのだとすればよい芸術とわるい芸術の違い、評価される画家とされない画家の違いはまったく外部世界の、おもに西洋中心主義的美学の、勝手な判断なのか。現代アボリジニ絵画は、かつて樹皮画を、白人たちがほとんどだれ一人その価値を認めていなかった時代にトラックに乗ってアーネムランドを走り先住民たちから買い集めていった、あのドロシー・ベネットが危惧していたように、伝統的な絵画形式を衰退に追いやるのだろうか。

 わたしには、答えられない。ほんとうのアボリジニ、伝統的暮らしをしてきた人々に、それは尋ねなければわからないことね。ドロシーや、アリス・スプリングスのパプンヤ・トゥーラ・ギャラリーのダフネ・ウィリアムズはいったのだった。

 ほんとうのアボリジニとはいったい、だれなのか。それは、ジョンではないということか。あの一見アメリカン・インディアンのような親しみやすい顔立ちの、白人との混血が一目でわかる、だが世界のどこにもいない独特な風貌の――彼ほど長い髪の人間をわたしはこれまで見たことがない――あのキュレーターは、ほんものではないと?
 ほんものの、ということばのいかがわしさを、だれが明確に逃れうるのだろう、いま?


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